今から二十年ほど前。
住んでいたアパートが取り壊しを行うことになった為、竹部さんは引っ越し先を探していた。
不動産屋からいくつか紹介される中で、ぱっと見て気に入った物件が出てきたという。
築年数はそれなりに経っていたが、広さは一人暮らしには充分すぎる2K。それでいて相場よりやや安い賃料だった。駅からだって遠くない。
一階であることだけが嫌ではあったが、二階はまだ借り手がいないという。しばらくは上からの騒音に悩まされる心配もなさそうだった。
不動産屋の若い営業マンも自信ありそうに薦めててくる。
いざ内見に進むと古くはあるが味わいがあるともいえる。塀で囲われており、通行人からの視線が気になることもない。
木造一戸建ての一階にある部屋だ。
部屋に踏み込むと若干日差しが足りないことは気になったものの、どうせ昼間は仕事で不在である。
風呂もトイレも想像していたより綺麗で、収納も多い。
竹部さんの印象もさらに良くなる。
人が出入りできるサイズの窓を開けると塀と隣家との壁に囲われた広さ一メートルほどの小さい庭があった。
どうやらそこで洗濯物を干すようだった。
狭く、日差しは最低限だったが、それよりも気になることがあった。
窓を開けて一メートル離れた向かいに古びたドアがある。
――これなんですか?
そう聞くと隣の大家の家と繋がっていると不動産屋から説明された。
元々ご子息が離れとして使用していたが、独立したため今は賃貸にしているという。
離れではあるが生活は完全に別だったのだろう、プライバシーはしっかり確保できている。
ただ大家さんの生活拠点は別にあるといい、ほぼ不在なため生活にする上で気を使うことはないとのことだった。
「庭のドアも当然開けられる心配はありませんよ」と不動産屋はおどけながら言った。
部屋の条件は広さ、家賃ともに魅力的だったので竹部さんはさほど悩まず契約の決断をしたという。
引っ越しを終えてからは各種手続きや足りないものの買い出しで休日もゆっくりできず、自室でのんびりできるようになったのは一ヶ月経ってからだった。
窓を開けて一服をしていると、ふと庭が気になった。
まだ洗濯機が届いていないので、洗濯物を干すために庭には出ていなかった。
窓を開け、庭にでる。
目線は自然と古びたドアにいく。
ドアを開ければ他人の家。勝手に開けるわけにはいかない。不法侵入になってしまう。
(まぁ、鍵は閉まってるよな……)
ドアノブが誘惑する。
ドアがあれば開けたくなってしまうのが人間の性分だ。
だがすんでのところで思いとどまったという。
どこか嫌な予感が頭をよぎったのだ。
「……もし開いたら、隣の人に申し訳ないもんな」
自分に言い聞かせるように竹部さんはひとりごちた。
ソファーも届き、いよいよ人を呼べる準備が整うと竹部さんは友人たちを新居に招いた。
酒盛りを始めながら、あれやこれや新居にまつわる話をしていると、友人の一人が煙草を吸いたいと言い始めた。
ヤニ汚れを嫌って室内は禁煙にしてある。
他の話題で盛り上がっていたのでサンダルと灰皿を渡し、庭に出した。
吸い終わって友人から窓から入りながら「変な場所にドアあるなー」と言った。「あぁ隣人の家だから――」開けるなよ、と言う前に「開かなかったけど鍵かけてんの? 何の倉庫にしてんの?」と遮られた。
竹部さんはやっぱり開かないよな、とどこか安堵しながら、「勝手に開けようとすんな」と苦笑いで注意した。
その日の夜、友人達が帰ってから床につくと、妙な音で目が覚めた。
カチャ……。
カチャ、カチャ……。
半覚醒した頭で(あれ、誰か忘れ物でもしたかな)と竹部さんは思った。
友人が再度アパートを訪れているのかと思ったのだ。
だが竹部さんの部屋の入り口はドアノブ式ではなかった。ハンドル型で、回るような音はがしないことを思い出す。
音は回転する金属音、途中で止まっては戻し、また回す……。何度も何度も同じ音だった。
脳裏に庭のドアノブが浮かぶ。
(隣人が帰ってきたのだろうか……だがこんな夜中に?)
竹部さんの布団は庭側の窓と平行に敷いてある。
窓までの距離は一メートルほど、ドアノブまでは二メートル。
意識すると音ははっきりとそこから聞こえた。
カーテンで隠れた窓からは庭が見えない。
竹部さんはカーテンを開き、庭を確認する気にはなれず、そのままじっと音が止むまで息を潜めていたという。
ドアノブの音はその夜から始まった。
昼間には鳴らず決まって夜。月に四回程度だが規則的ではなく、しばらく鳴らないときもあれば、多いときは週に三度あった。
もちろん起きずに気づかないことも含めればもっとあったかもしれないが……。
不動産屋に相談してみたが、他のアパートではないか、と言われた。「一応確認しておきますが……大家さんは今東北の方で生活されています。もうご高齢ですから、突然夜に帰ってくることは常識的にないと思いますよ」との説明だった。
――息子さんはどうでしょうか?
尋ねてみた。
アパートは元々離れだったのだ。
本宅の鍵だって持っているだろうし、もし賃貸に出していると知らなければ入ってこようとしても不思議ではない。
だが不動産屋は「――それはありません」と断言した。
なぜと聞いたが、プライバシーを理由に最後まで不動産屋は教えてくれなかったという。
断れない仕事が続き、 帰宅が深夜になったある晩。
寝支度をせわしなく終えて布団に入る。
(――明日も仕事が山積みだ)
ため息をついて目を閉じると睡魔がすっとやってくる。
寝入りばなを邪魔する音が始まった。
カチャ……。
カチャ、カチャ……。
カチャ、カチャ……カチャ……カチャ……。
(あぁ、もう……)
(うるせぇな……)
睡眠を邪魔された苛立ちから、つい衝動的に怒鳴ろうとして――竹部さんは異変に気づいた。
声が出ない。
それだけでなく――身体も動かない。
目だけが動く。
視界はカーテンがかかっている窓の方向――。
心臓がドクドクと重い鼓動を始めた。
カーテンにわずかに隙間が空いていた。
(きちんと閉めていたはずなのに……)
目を必死に閉じる。 このまま寝てしまいたいと竹部さんは願った。
次第に音にも慣れて、寝てしまえるのではと思った。
だが無理だった。
ドアノブ音が止まる。
そしてキィ、と開く音が続く。
高まる恐怖に竹部さんは目蓋が痛くなるほど両眼を見開いた。
カーテンの隙間から庭が見える。
庭のドアがゆっくりと開き、暗がりからのっそりと這い出してくるものがいた。
人のように見えた。
襤褸布をまとい、ぼさぼさに伸びた髪が顔に垂れ落ちている。
身体の関節は奇妙な方向に曲がっており、肘と膝で地面を這う。
そして植物が伸びるようにゆっくりと、だが確かに、窓に――竹部さんに向かって近づいてくる。
曲がった腕を器用に使い、ソレは起き上がった。
(なんだよ、なんなんだよ……)
ソレの顔を見て、竹部さんは唾を飲み込んだ。
人ではありえない形相だった。
月明かりに瞳は反射しなかった。両眼があるべき場所は空洞だった。鼻は骨ごと削がれている。
必死に蠢く口からはぼろぼろと土がこぼれる。まだらにしか生えていない歯で土を噛んでいる様は蟲を思わせた。
近づいてきたソレは縁側の踏み台に頭をのせた。
奇妙な動きなのに、まるでいつも行っているような自然さがあった。
カーテンの隙間から、当然のように竹部さんを見つめる。
竹部さんは悲鳴をあげることも目を閉じることもできず、恐怖に頭を痺らせながら見つめ返すことしかできなかった。
そこには何の感情も読み取れなかったが、ただひたすらにこの部屋に執着していることは伝わってきた。
空洞の目に、執着をはっきりと感じたそうだ。
どのくらいの時間かわからず見つめ合った後、ようやく竹部さんは気を失うことができたという。
起きると布団は尿にまみれていたそうだ。
以来、竹部さんは引っ越し前夜までドアの前に棚や段ボールや重いものを置き、一切庭には出なくなった。
夜眠るときはイヤホンをし、雨戸を閉めっぱなしにしたそうだ。
「おかげで部屋が黴臭くなっちゃってもう、そっちもまいったよ」
どういった事情で大家は他県で暮らすことになったのか、離れに住んでいた息子はどこに行ったのか。
竹部さんはあとから考えてみたが、答えはわからない。
住居はすでに取り壊されている。
東京、国分寺での話だという。